今年2024年8月15日は79回目の終戦の日でした。来年2025年は節目の80回目を迎えます。
第二次世界大戦が終わって80年。80歳のひとでも生まれたばかりでこの戦争の記憶はないに等しいということになります。
直接の体験を語る人と関われないいま、私たちはなにから学べるか。それは記録以外にないのではないでしょうか。
資料館や本や映像など多くの記録が現代に生きるわたしたちの目に留まるのを待ってるのです。
今回紹介するのは井上光晴さんの小説「明日 一九四五年八月八日・長崎」です。
副題の日付と場所でだれもが同じことを思い浮かべるかと思います。翌日なにがあったかを。
この小説で描かれるのは8月8日の約一日の出来事。ある結婚式に呼ばれた人間たちの物語です。ある人は出産を控え、ある人は投獄された夫の面会に刑務所に向かう。妊娠が分かったが相手と音信不通になった看護婦もいます。それぞれが事情を抱え今日を生きています。きっと明日もいつもどおりやってくるでしょう。明日が1945年8月9日でなかったなら。
本のなかの人物たちは当然のように明日の話をします。けれど読者である私たちは翌日、長崎に原爆が落とされ人びとの日常が奪われた歴史を知っています。
だからこそ読みづらい長崎弁も一字一句逃さないように読み、登場人物が口にする僻みや妬みさえも大切に受け止めたくなります。9日の未明に生まれた子どもの愛おしさたるや。
物語は9日の日が昇る前に終わります、ぱっと。彼らのその後は描かれません。
井上光晴は長崎県佐世保で育ちます。当時長崎にはおらず被爆こそしていませんが故郷が一変した衝撃はいかほどのものだったでしょう。
「必ず明日が来るとは限らない、だから一日を大切に生きよう」そんな安直なメッセージはこの本にはありません。戦時下でも普通に生きていた人々の日常がある日突然奪われる、その不条理さと無残さととてつもない暴力性に私たちはなにができるというのでしょう。
そしてこれは過去の物語ではなく今もそして未来にも起こりえる悲劇なのです、核兵器が、戦争がある限り。
井上光晴は書かない事で多くのことを読者に伝えようとしています。ぜひこの本を前に想像してみて下さい。1945年8月9日午前11時2分のことを。